サルヴァトーレ・アダモ略歴 1943年 11月1日、シシリー島、コミゾに生まれる。(国籍はイタリア)。本人は出生地の暮らしについての記憶はほとんどない。炭坑夫の父を中心に大家族の長男。 1957年 (13歳)数々の歌のコンクールで優勝。歌手になる決心をする。 1958年 (14歳) 最初の作曲と作詞。 (学生時代のアダモは語学が得意で成績優秀。フット・ボールはプロ級だった。) 1961年
(17歳)「もし打ち明けられたら」を歌ったコンクールで優勝し賞金五万ベルギー・フランを手にする。シャルル・アズナヴールが絶賛し、後見人になる。ベルギー・フィリップスで最初の録音を発表。「ペルケ」「信頼」 1962年 (18歳)「可愛いバンビーナ」他四曲をポリドールから発表するが不発に終わる。10月にEMIより「ブルー・ジーンと皮ジャンパー」/「云わせておけよ」を発表。短期間に三千枚が売れる。11月に「サン・トワ・マミー」「さあ、やれ、葬儀人夫」発表。この頃すでに自作曲200曲以上のストックを持っていた。 1963年 (19歳)「サン・トワ・マミー」がベルギーで大ヒット。5月14日クリフ・リチャードとシャドウズの前座としてオランピア劇場に初出演。11月1日ブリュッセルで初のワンマンショー。ベルギーの国民的歌手となる。ファースト・アルバム(のちの日本盤『プルミエ』)発表。(「雪が降る」「一寸失礼」) 1964年 (20歳)ベルギー王女を讃えた「いとしのパオラ」が大ヒット。ベルギー王家のレセプションに出席。「一寸失礼」の大ヒットで、フランスでの人気も確立。(スペイン、ポルトガル、スイス、ギリシャ進出)。セカンド・アルバム(日本盤=『ドゥージェム』)発表。日本でデビュー。越路吹雪が「サン・トワ・マミー」を歌う。(「夜のメロディー」「不良少年(ろくでなし)」) 1965年 (21歳)初のオランピア出演。前売り券はは完売。当日は警官隊が出動した。ライヴ・アルバム40万枚の大ヒット。ビルボード誌人気投票フランス部門で第一位に。フランソワ・モーリャック、アダモの詩を絶賛。「サリュ・レ・コパン」誌二位。(新人としては一位)。ヨーロッパ各国でベスト・セラー。時にはベスト・テンの大半を独占。J・ヴェルベック出版より「アダモが語るサルヴァトーレ」出版。(「君を愛す」「夢の中に君がいる」) 1966年 (22歳)ジュマップ市名誉市民。イスラエル巡業中に「インシャラー」を制作。平和を願うこの歌は売り上げの新記録をつくり、高く評価されたが、反イスラエル勢力からは激しい攻撃を受ける。ベルリン・フィルもこの曲を演奏。「ヴィ・カソリック」誌ではその年の最も紹介すべき人物の一人として、評議会がロバート・ケネディ、キング牧師、ド・ゴール大統領、ローマ法王と並んでアダモをあげる。ヨーロッパのファン・クラブが連合して国際的な活動をはじめる。最愛の父が死に、母と幼い弟と五人の妹の面倒をみることになる。「傷だらけの心」、「アンサンブル」「おさげの少女」。フランスでアルバム『商業的でないシャンソン集』発表。翌年にかけて2度目のオランピア(ライヴ・アルバム化)。 1967年 (23歳)初のアメリカ公演と日本公演。映画『アルノー家の人々』に初出演。越路吹雪の「サン・トワ・マミー」大ヒット。フランスの人気投票一位保持。レコード売り上げ新記録更新。「ル・ネオン」レコード「ふたりのロマン」。サード・スタジオ・アルバム(日本盤=『ひとつぶの涙』) 1968年 (24歳)フィリップ・ロラン著「アダモへ:子供たちに捧げる歌」出版。南米巡業大成功。チリでは公演を実現させようとファンがデモを起こす。第2回日本公演。日本各地のファンクラブがまとまる。「ゴールデン月世界」ショー四回出演。「想い出の小川」、「愛のワルツ」。 1969年 (25歳)第3回目のオランピア(ライヴ・アルバム化)。幼なじみのニコル・デュランと結婚。第2回目の映画「アルドワーズ」出演。「明日は月の上で」「ヘイ・ジュテーム」「小さな幸福」「摩天楼」。はじめての「イン・ジャパン」大阪で収録。 1970年 (26歳)自分で製作・主演・主題歌を作った映画「ひなげしの島」が発表になる。アルバム『アダモ’70』アルバム『アダモ・イン・ジャパン』発表。「ヌー」「愛の忘却」「行けよ僕の船」。 1971年 (27歳)アフリカ巡業。「雪が降る」の日本語盤が驚異的ミリオン・セラーに。ベルリン・フィルハーモニー音楽堂でコンサート。自己のプロダクション独立。四回目のオランピア出演も大雪のさなか大成功。(ライヴ・アルバム化)。NHK「世界のワンマンショー」で「自由ベルリン放送」制作の番組が放映される。「ジュンとロぺ」CMソング、大ヒット。ミュージック・フェアで森進一と共演。「バラよふたたび」「微笑みの人」。 1972年 (28歳)アダモの日本語盤アルバム発売となる。真夜中のブリュッセル王室競技場で十周年リサイタル。アルバム『愛が帰るとき』発表。ソ連・東欧諸国・日本で公演。モスクワでもブレジネフ書記長の家族でさえチケットが手に入らないという大盛況。アルバム『アダモ・ライヴ』(二枚目のイン・ジャパン)収録。翌年にかけてオランピア。 1973年 (29歳)パリ市より銀メダル授与。年間多くのTV・ラジオに出演。カンヌに新居を買う。武道館コンサートが、紅白の裏番組として放映される。日仏合作ドラマ「恋人たちへの鎮魂歌」の主題歌「愛と命」制作。アルバム『夢の世界』発表。「海のマリー」がヒット。 1974年 (30歳)世界各地コンサート・ツアー。アルバム『アダモ”ライヴ”74』(三枚目のイン・ジャパン)発表。オランピア・スペシャル・プログラム出演。 1975年 (31歳)1月13日オランピアでの十周年コンサート。1月28日「ミュージック・フェア」放映。イブ・ザルグ著「サルヴァトーレ・アダモ」セゲール社より出版。アルバム『セ・マ・ヴィ』発表。オリジナル・サントラ盤『ひなげしの島』日本だけで限定発売。アルバム『アダモ・ベルリン・コンサート』発表。「待って下さい、マドモアゼル」、「海のマリー」日本語盤。 1976年 (32歳)スペイン公演。ボードワン国王即位25周年レセプション出席。EMIからCBSへ移籍。アルバム『愛はルシアン』。「黒い瞳に愛をこめて」 1977年 (33歳)1月2日TV番組「サウンド・イン・S」放送。オランピア出演(ライヴ・アルバム化)。五輪真弓が前座で出演。韓国公演成功。NHKで森進一と共演。彼にオリジナル曲「甘ったれ」「みんな優しかった」を提供。「限りなき愛」、「マヌエル」、アルバム『もしも君が・・・』。 1978年 (34歳)アルバム『メモワール』発表。セイコーCMに「限りなき愛」が採用。フランス語の教材として、ソ連では「限りなき愛」オーストリアでは「想い出の小川」が使われる。 1979年 (35歳)オランピア劇場主に謝意を表しオランピア劇場出演。三回来日。N響「ゴールデン・ポップス」出演、日本公演。明治製菓の招待で谷村新司と共演「徹子の部屋」初出演。五木ひろしと「ミュージック・フェア」で共演。NHK「魅惑のファンタジー」出演他、日本での活動が目立った。2度目の韓国公演。「風のメロディー」。アルバム『サクレ・トワ』発表。 1980年 (36歳)パリ・シャンゼリゼ劇場でリサイタル(後に二枚組ライヴ・アルバム化)。詩集“LE CHARMEUR D’OCEANS”(海への誘い)発表。越路吹雪追悼式に出席。「ワールド・ソング・フェスティバル・イン・ソウル’80」にゲスト出演し10曲を歌う。(HYUNDAI RECORDSよりLP発売される。) 1981年 (37歳)一ヶ月のソ連ツアー。フランスTV番組「アビ・ド・ルシェルシュ」出演。NHKFM「アダモ・イン・クリスマス」アルバム『雪の下の春』(NHKみんなの歌)発表。二枚組アルバム『アダモ・コンサート’81』発表。 1982年 (38歳)アルバム『パズル』発表。持田製薬TVCM「シ・ベル・シ・ナチュレール」発表&ヒット。東京音楽祭にプレゼンターとして出演。NHKテレビ「アダモ、愛を謳う」など日本でのTV出演多数。 1983年 (39歳)6回目の真打ちオランピア出演。第13回目の日本公演。「ラビアの丘」 1984年 (40歳)6月心臓病で倒れるが手術によって全快する。11月病後初仕事として来日。日本公演と「ミュージックフェア」。千昌夫、チョー・ヨンピルと共演。 1985年 (41歳)ジュマップ市の、父の働いていた工場の跡地に立てられた公会堂で公演。 1986年 (42歳)二枚組アルバム『オートル・ショウズ』発表5月と11月にディナー・ショー来日。 1987年 (43歳)フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章勲三等授与。シャンソンを世界、特に日本に浸透させた功績。8月シシリー島で歌う。アルバム『アベク・デ・シ』発表。 1988年 (44歳)4月「じゃがいもの会」「難民を助ける会」主催のチャリティー・ショー「応援歌‘88」のために来日。12月はコンサートとディナーショーで来日。「さよならと言って」「自由が飛び立つ時」。 1989年 (45歳)アルバム『星の降る街』発表。画家ゴッホに捧げる曲「ヴァンサン」を作曲。ドイツ統一をみて「その日、ベルリンは」制作。「夜のヒットスタジオ・イン・パリ」出演。元宝塚の志摩みゆきとのデュエットで「アベック・デ・シ」発売。 1990年 (46歳)カジノ・ド・パリ、出演。フランスTV番組「アビ・ド・ルシェルシュ」2度目の出演。ロシア公演。12月日本公演。パリ収録日本公開のTV番組「音楽マイ・ラブ」。 1991年 (47歳)ベルギーの王冠勲章授与。モスクワのフェスティバル出演。 1992年 (48歳)アルバム『夢の爪弾き』発表。第25回目来日。『ライヴ・イン・ジャパン』(通算五枚目)ビデオ・LD・CDで発表。「ローラ」。 1993年 (49歳) ユニセフ親善大使となり(現在も)、ベトナムへ。イスラエルとPLOの歴史的握手に対応して「インシャラー」の歌詞を改変。ジュマップで30周年祝賀。カジノ・ド・パリ、2度目の出演。アルバム『トランタン』発表。50歳の誕生日にブリュッセルでリサイタル。「橋の向こう側」「金色の夢」。 1994年 (50歳) 詩集『心の詩』発表。第27回日本公演。「徹子の部屋」出演。 1995年 (51歳) オランピア出演。アルバム『人生の流れるままに』発表。 1996年 (52歳) 1997年 (53歳) 1998年 (54歳)ベルギー「ラ・ヌーヴル・ガゼット」誌にて人気投票第一位。オランピア出演。レコード会社がふたたびEMIへと戻る。」。アルバム『まなざし』発表。 1999年 (55歳)ベルギー「ラ・ミューズ」紙にて人気投票芸能人部門第一位。フランスと日本で公演 2000年 (56歳)ベルギー、フランス、トルコ、イタリア、ポルトガル他で公演。 2001年 (57歳))オランピア出演予定。各国公演。新アルバム発表予定。 |
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